マイケル・ジャクソン (Michael Jackson)
【マイケル・ジャクソン / Michael Jackson】
出生名:マイケル・ジョーゼフ・ジャクソン - Michael Joseph Jackson
生年月日:1958年8月29日
出身地:アメリカ合衆国インディアナ州ゲイリー
死没:2009年6月25日(満50歳)カリフォルニア州ロサンゼルス
ジャンル:ソウル、ファンク、ロック、ポップス、モータウン・サウンド
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ディスコグラフィー
【CDアルバム】
[モータウン]
1972 ガット・トゥ・ビー・ゼア / Got to Be There
1972 ベンのテーマ / Ben
1973 ミュージック・アンド・ミー
1975 フォーエヴァー・マイケル / Forever, Michael 1975年
[エピック/ソニー]
1979 オフ・ザ・ウォール / Off The Wall
1982 スリラー / Thriller
1987 バッド / BAD
1991 デンジャラス / Dangerous
1995 ヒストリー / HIStory ベスト+新曲
1997 ブラッド・オン・ザ・ダンス・フロア / Blood On The Dance Floor 新曲+Remix
2001 インヴィンシブル / Invincible
2001 グレイテスト・ヒッツ / Greatest Hits - HIStory Volume I ベスト
2003 ナンバー・ワンズ / Number Ones ベスト+新曲1曲
2004 アルティメット・コレクション / The Ultimate Collection ベスト+新曲・未発表曲・ライヴDVD
2005 エッセンシャル・マイケル・ジャクソン / The Essential Michael Jackson ベスト
2009 マイケル・ジャクソン THIS IS IT / Michael Jackson's This Is It ベスト+新曲1曲・未発表音源
※各チャートの数字は最高位。米国はPOPチャートの順位です。
【DVD・ビデオ】
1988 Moonwalker
1993 Dangerous - The Short Films
1995 Video Greatest Hits - History
1997 HIStory on Film, Volume II
2003 Number Ones DVD
2004 The One
2005 Michael Jackson: Live in Bucharest
【シングル代表曲】
[モータウン]
1971 Got To Be There (全米4位・R&B4位・全英5位)
1972 Rockin' Robin (全米2位・R&B2位・全英8位)
1972 I Wanna Be Where You Are (全米16位・R&B2位)
1972 Ain't No Sunshine (全英8位)
1972 Ben (全米1位・R&B5位・全英7位)
1973 With a Child's Heart (全米55位・R&B23位)
1973 Happy (全英52位)
1975 We're Almost There (全米54位・R&B7位)
1975 Just A Little Bit Of You (全米23位・R&B4位)
1978 Ease On Down the Road with Diana Ross (from The Wiz) (全米41位・R&B17位・全英45位)
1979 You Can't Win (from The Wiz) (全米81位・R&B42位)
1981 One Day in Your Life (全米55位・R&B42位・全英1位)
1984 Farewell My Summer Love (全米38位・R&B37位・全英7位)
1984 Girl You're So Together (全英33位)
[Off The Wall]
Don't Stop Till You Get Enough (全米1位・R&B1位・全英3位)
Rock With You (全米1位・R&B1位・全英7位)
Off The Wall (全米10位・R&B5位・全英7位)
She's Out Of My Life (全米10位・R&B43位・全英3位)
Girlfriend (全米-位・全英41位)
[Thriller]
The Girl Is Mine with Paul McCartney (全米2位・R&B1位・全英8位)
Billie Jean (全米1位・R&B1位・全英1位)
Beat It (全米1位・R&B1位・全英3位)
Wanna Be Startin' Somethin (全米5位・R&B1位・全英8位)
Human Nature (全米7位・R&B27位・全英-位)
P.Y.T. (Pretty Young Thing) (全米10位・R&B46位・全英11位)
Thriller (全米4位・R&B3位・全英10位)
[BAD]
I Just Can't Stop Loving You with Siedah Garrett (全米1位・R&B1位・全英1位)
BAD (全米1位・R&B1位・全英3位)
The Way You Make Me Feel (全米1位・R&B1位・全英3位)
Man In The Mirror (全米1位・R&B1位・全英21位)
Dirty Diana (全米1位・R&B5位・全英4位)
Another Part Of Me (全米11位・R&B1位・全英15位)
Smooth Criminal (全米7位・R&B2位・全英8位)
Liberian Girl (全米-位・全英13位)
Leave Me Alone (全米-位・全英2位)
[Dangerous]
Black Or White ( 全米1位・R&B3位・全英1位)
Remember The Time (全米3位・R&B1位・全英3位)
In The Closet (全米6位・R&B1位・全英8位)
Jam (全米26位・R&B3位・全英12位)
Heal The World (全米27位・R&B62位・全英2位)
Who Is It (全米14位・R&B6位・全英10位)
Will You Be There (全米7位・R&B53位・全英9位)
Give In To Me (全米-位・全英2位)
Gone Too Soon (全米-位・全英33位)
[HIStory]
Scream/Childhood (全米5位・R&B2位・全英3位)
You Are Not Alone (全米1位・R&B1位・全英1位)
They Don't Care About Us (全米30位・R&B10位・全英4位)
Stranger In Moscow (全米91位・R&B50位・全英4位)
Earth Song (全米-位・全英1位)
This Time Around (全米-位・R&B42位・全英18位)
HIStory (全米-位・全英5位)
[Blood On The Dance Floor]
Blood On The Dance Floor (全米42位・R&B24位・全英1位)
Ghosts (全米-位・全英5位)
[Invincible]
You Rock My World (全米10位・R&B13位・全英2位)
Butterflies (全米14位・R&B2位・全英-位)
Cry (全米-位・全英25位)
Heaven Can Wait (全米-位・R&B72位・全英-位)
One More Chance (全米83位・R&B40位・全英5位)
[Michael Jackson's This Is It]
THIS IS IT (全米-位・R&B18位・全英1位)
【アルバムセールス】
[モータウン]
Got to Be There: 410万枚
Ben: 440万枚
Music & Me: 200万枚
Forever Michael: 160万枚
The Best of: 220万枚
One Day in Your Life: 150万枚
Farewell My Summer Love: 200万枚
Looking Back to Yesterday: 30万枚
The Original Soul of Michael Jackson: 37万枚
Anthology: 260万組(2枚組アルバム)
[エピック/ソニー]
Off The Wall: 1900万枚
Thriller: 1億400万枚
Bad: 2800万枚
Dangerous: 2900万枚
HIStory: 1800万組(2枚組アルバム)
Blood On The Dance Floor: 600万枚
Invincible: 800万枚
Greatest Hits - HIStory Volume I: 300万枚
Number Ones: 750万枚
The Ultimate Collection: 25万組(5枚組ボックスセット)
The Essential Michael Jackson: 200万組(2枚組アルバム)
【マイケル・ジャクソン バイオグラフィー】
1958年8月29日生まれ、アメリカ合衆国インディアナ州ゲイリー出身。アメリカを代表するポップ・アイコン、マイケル・ジャクソン。彼が、ベーブ・ルース、ケネディ大統領、マイケル・ジョーダン、ジェイムズ・ブラウン、マーティン・ルーサー・キングらと肩を並べるほどの、20世紀のアメリカが生んだ世界的大スターであるという事実は紛れもないものだ。
言わずと知れたジャクソン5時代、マイケルは白人受けする黒人音楽ファクトリー(=モータウン)の最右翼として、本当に多くのヒット・ナンバーを生み出していった。また、グループ活動と平行して、『ガット・トゥ・ビー・ゼア』、『ベンのテーマ』など可愛らしいソロ作を数枚リリースしている。本格的なソロ・キャリアの幕開けとなったのは、1979年に発表された、クインシー・ジョーンズのプロデュースによる傑作『オフ・ザ・ウォール』からだろう。ソウル/ファンク/ディスコのエレメントをスウィートに料理した本作はビッグ・ヒットを記録。そして、1983年にリリースされた『スリラー』がギネス級の爆発的セールスをマーク、完全なる世界制覇を成し遂げたのだった。秀逸なプロモーション・ビデオ、売れっ子プロデューサーたちによる計算された楽曲構成、緻密かつコンテンポラリーなサウンド・プロダクション――この大成功は、MTV主導型の80's音楽シーンにおけるヒットの方程式を作り出したのである。
その後、当時賛否両論を呼んだチャリティ・ソング「ウィ・アー・ザ・ワールド」、憧れの人ポール・マッカートニーとの共演作「セイ・セイ・セイ」でキャリアの頂点を迎えたマイケル。最近でも2001年に久々のオリジナル・アルバム『インヴィンシブル』をリリース。かの『オフ・ザ・ウォール』を彷彿させるクール&ファンキーな仕上がりを見せた。
2008年8月、あの『スリラー』の衝撃から25年――。マイケルをリスペクトしてやまないウィル・アイ・アム、エイコン、カニエ・ウエスト、ファーギーらが素晴らしい新曲群を提供した『スリラー25周年記念盤』が発表され、同作は再び全世界で大ヒット。自らが打ち立てた人類史上最大セールスの記録を、自らの手で、より大きな物にすることとなった。同年9月には、マイケル・ジャクソンの生誕五十周年を記念して、世界各国ごとにファン投票で収録曲を決定した究極のベスト・アルバムがリリースされた。
そして、1996年〜1997年にかけて行われた『HIStoryツアー』以来、実に12年ぶりとなるイギリス『London O2 Arena』でのファイナル・ツアー『KING
OF POP MICHAEL JACKSON THIS IS IT!』の開催が間近に迫っていた矢先の2009年6月25日、自宅にて心肺停止状態に陥り、UCLA付属病院へ救急搬送されたが急逝。満50歳というあまりにも早すぎる死に、世界中のファンやトップ・アーティスト達に衝撃を与えた。
資料提供:リッスンジャパン様
マイケル・ジョセフ・ジャクソン(Michael Joseph Jackson、1958年8月29日 - 2009年6月25日)は、アメリカ合衆国のレコーディングアーティスト、エンターテイナー、実業家。
「ポップ・ロック・ソウルの真の王者(the true king of pop rock and soul)」、または「ポップ界の王(King of Pop)と称される。ギネス・ワールド・レコーズでは「人類史上最も成功したエンターテイナー」として認定されている。2009年時点でのシングル、アルバム、ビデオの世界総売り上げは7億5000万枚以上にのぼる。
「最も売れたアーティスト一覧」によるとビートルズ、エルヴィス・プレスリーに次いで世界ランク第3位である。VH1が選ぶ最も偉大な100のアーティストで、ビートルズに次ぐ2位。ローリング・ストーンが選ぶ最も偉大なシンガー100人では25位。
2009年6月25日、自宅近くのカリフォルニア大学ロサンゼルス校医療センターに呼吸停止の状態で運ばれ、その後死亡が確認された。50歳没。
10人兄弟姉妹の7番目(六男)として、インディアナ州ゲーリーのアフリカ系アメリカ人街に生まれる(すぐ上の兄マーロンの双子の兄弟は、誕生後すぐに死亡した)。ゲーリーは、住民の8割以上をアフリカ系アメリカ人が占める、全米で最もアフリカ系アメリカ人の率が高い都市であり、また黒人達にとっては最初の黒人市長が1967年に出た、誇りの土地でもある。
父のジョセフ・ジャクソンは、USスチール社の製鉄所の貧しいクレーン操縦士であった。母キャサリン・ジャクソンはエホバの証人の信者で、マイケル自身も同様であった。その活動の一環である家庭訪問は「Thriller」発売後も行っていた。父親は厳しく、しばしば息子に手を上げた。財政的に厳しく、キャサリンは「シアーズ」などの小売店でパートタイムとして働くことで、家計を何とか補おうとしていた。
父は「ファルコンズ」というR&Bバンドでギタリストをしていた過去を持ち、アーティストの道を諦めてからも当時のギターを大事にしまっていた。1957年に白黒テレビが壊れてしまった後は、演奏を披露することもしばしばあった。
ところがある時、愛蔵のギターを息子達が隠れて演奏していると、弦を1本切ってしまう。勝手に切れたと思ってほしいという願いもむなしく、ジョセフに問われ、「殺される」と恐れたが、意外にも冷静に「演奏して見せろ」と言われ、ティト達が必死になって演奏すると、ジョセフはなかなかうまいことに気がついた。「これはひょっとすると貧困から抜け出す手立てになるかもしれない」と思った父は、息子達に歌とダンスの訓練を授けようと決意。ジャッキー、ティト、ジャーメインと従兄弟とされていた2人(実は他人)で、1962年にボーカルグループを結成した。
翌年、マイケルは兄マーロンと共に2人の「従兄弟」と入れ替わりにグループに入る。マイケルは幼稚園時代から歌を歌っており、1962年には幼稚園で映画「サウンド・オブ・ミュージック」のエンディング曲「全ての山に登れ」を歌っていた。マイケルは当時5歳であったが、父の厳しい特訓を受け、兄弟バンド「Ripples & Waves Plus Michael(のち「the Jackson Brothers」と改名)」の一員として頭角を現した。
初めてナイトクラブで働いた時の収入はわずか8ドルであり、ほぼ無名の状態であったが、翌年くらいになるとタレントショーやスーパーマーケットのオープン記念に出演することで、地道にではあるが徐々に名前が知られるようになっていった。
1965年には、地元ゲイリーのルーズベルト高校で行われたタレントコンテストで、テンプテーションズの「マイ・ガール」を演奏し、優勝した。
ジャクソン5時代(中央、1971年)1966年に、4人の兄達と「ジャクソン5」(ジャクソンファイブ)を結成。ゲーリーのナイトクラブ、ミスターラッキーでデビューする。1967年にはニューヨークのアポロ劇場にも進出し、大々的なタレントコンテストで優勝した。これにより、ジャクソン5はシカゴのリーガルなどの名門劇場に出演できるまで成長する。当時は、まだまだ駆け出しであったため、前座の出演であった。この過程で、ジェームス・ブラウンやジャッキー・ウィルソン、サム&デイヴなど、様々なスターのパフォーマンスを勉強した。
地元では、インディーズの「スティールタウン・レコード」からシングルを何枚か出しており、1968年1月には「ビッグ・ボーイ」でデビューしている。
当初、ジャクソン5をインディアナ州で発掘したのは、聞こえがよかったのでダイアナ・ロスということになっていたが、実は、ボビー・テイラーがコンテストに優勝した彼らと競演した際に発掘、その後モータウンに紹介した。モータウンの創始者ベリー・ゴーディは、ロスでジャクソン5のオーディションビデオを見たとき、荒削りながら彼らにスターの資質を見出した。即刻、彼はモータウンの総力を上げプロモートを開始したのだが、その際にベリー・ゴーディがダイアナ・ロスにジャクソン5を紹介させるという経緯だった。
1968年7月に、モータウンと正式に契約。1969年10月シングル「帰ってほしいの」(I want you back)でメジャーデビュー(マイケルは当初8歳の設定だったが、実際には11歳だった)。リードボーカルとして天才児ぶりを発揮し、いきなりヒットチャート全米1位にまで上り詰めた。幼く可憐な感じでありながら、ビブラートが掛った声がファンを惹きつけた。その次のシングル「ABC」の相手は、ビートルズの「レット・イット・ビー」であったが、首位の座から引き摺り下ろし1位を獲得。続く「小さな経験」(The Love You Save)「I'll Be There」も1位となり、デビューから4曲連続で全米チャート1位に送り込むという快挙をなし遂げた。
マイケルは、1971年10月発表のシングル「Got To Be There」でソロデビュー。11月には、人気コメディー番組「フリップ・ウィルソン・ショー」に出演した。翌年には、「Ben」もヒットした。
1970年代半ば、ジャクソン5とレコード会社の間で音楽的方向性の違いが表面化。マーヴィン・ゲイやスティーヴィー・ワンダーなどが自分自身のセルフプロデュースによって、ニュー・ソウルと呼ばれる新しいポップミュージックの枠を作り出していくのを見て、メンバー達も自分達による音楽という新しい方向性を見出していったのだが、それに対してモータウンが反発したのである。モータウンとの金銭的なトラブルも出はじめた。マイケル本人も背が伸び、酷いにきびに悩まされ、その上声変わりが追い打ちをかけて、性格が急変。ラ・トーヤは「元気な少年だったマイケルはこの時内気な青年に変わってしまった」と後に語っている。実際、「背が伸びて可愛くなくなった」などと冷やかされることもしばしばであった。
結局、自分達による音楽を求めたメンバーは1975年にモータウンを離脱し、エピック・レコードへ移籍した。しかしその際、モータウンがジャクソン5のグループ名のエピックでの使用を認めず、訴訟問題となった。そのため、グループは名前を「ザ・ジャクソンズ」と改め活動を行うことになった。しかし当時一番マイケルと仲が良く、グループのセックス・シンボル的存在でもあったジャーメインは、モータウン社長の娘と結婚していたためグループから脱退。新たにマイケルの弟ランディがザ・ジャクソンズに加入した。
ザ・ジャクソンズ時代(後列左から2番目、1977年)このいざこざでグループの人気が下がるのではないかと心配され、事実移籍後のアルバムの売り上げはさほどよくなかった。だが、ザ・ジャクソンズが初めてセルフプロデュースを行った3枚目のアルバム『Destiny』がヒットし、その不安を一蹴する。この頃のザ・ジャクソンズのヒット曲としては、「Can you feel it」「Blame it on the boogie」「Shake Your Body (Down To The Ground)」(マイケルとランディの共作)などがある。ジャクソンズ時代もマイケルはグループと並行し、ソロ活動を行っていた。
1978年、ダイアナ・ロス主演のミュージカル映画「Wiz」(オズの魔法使いのアレンジ)にカカシ役で出演していた際、映画音楽を担当していたクインシー・ジョーンズと出会った。クインシーに対して「誰か僕に合うプロデューサーはいないかな」と言ったところ「私じゃ駄目かな」とクインシーが返答したという逸話が伝わっている。「ウィズ」はステージ上では大成功だったものの、映画は商業的には成功しなかった。年末に発売された映画からの「ユー・キャント・ウイン」が、エピックでのデビュー曲であった。
クインシーをプロデューサーに迎え、『Off The Wall』を制作。7月先行シングルとして発表された 「Don't Stop 'Til You Get Enough」 は、初めてマイケル自身が作詞作曲を手がけたナンバーである。なお、この頃はドラムとピアノを使って作曲を行っていた。当時は黒人ということで、さほどオンエアされなかったが、タキシードを着たマイケルが3人に分裂する映像は話題を呼ぶ。最終的には全米チャートを制覇した。8月に発売された『オフ・ザ・ウォール』は、少年ボーカリストからの脱皮を印象付けることになる。10月には、「Rock With You」を発表。この曲では、一人多重録音の技術が用いられている。ビルボードでは、4週連続1位を獲得している。さらに、「Off The Wall」「She's Out Of My Life」と同一アルバムから4作連続で全米チャートトップ10に入るという、当時ソロアーティストとしては誰もなしえなかった快挙を成し遂げた。しかし、後にマイケル自身が『スリラー』でこの記録を破ることになる。『オフ・ザ・ウォール』はロングヒットを飛ばし、次回作に期待を集めた。
ザ・ジャクソンズは、1980年9月「マイ・ラブリー・ワン」(Lovely One)(マイケルとランディとの共作)、11月「ハートブレイク・ホテル」(This Place Hotel)(マイケル直筆)とシングルを出したが、これらがこの時期のザ・ジャクソンズの主要曲であることからも分かるように、この頃はグループの中でも非常に重要な位置を占めていた。「This Place Hotel」はもともと「Heartbreak Hotel」という名前であったが、後に改名している。「ビリー・ジーン」「Dirty Diana」同様スキャンダラスな歌詞で知られている。 映画「WIZ」に出演。(1979年)
1981年3月には、1975年発売の『フォーエヴァー・マイケル』から、「想い出の一日」(One Day In Your Life)がモータウンから発売されたが、『オフ・ザ・ウォール』の売り上げが凄まじかったために、このシングルも話題を集め全英1位を獲得している。1981年12月には次回作のため、『オフ・ザ・ウォール』では「Girlfriend」を書いてもらったポール・マッカートニーにコラボレーションを打診した。これが実を結び、ポールと正式にコンビを組むことになり3曲のデュエット(「The Girl Is Mine」「Say Say Say」、そしてポールのアルバム『パイプス・オブ・ピース』に収録された「The Man」)を後に生むことになる。ポールとはプライベートで一緒になることが多く、2人ともアニメーションが大好きで、一緒にたくさんのアニメを観たとマイケルは語っている。
1982年6月にはクインシーのプロデュースにより、スティーヴン・スピルバーグ監督の「E.T.」のストーリーブックのナレーション入りアルバムの制作に参加した。ナレーションのほか、このアルバムのための楽曲“Someone In The Dark”を提供した。1982年8月には、クインシーと2人でロサンゼルスのウエストレイク・スタジオに篭りっきりのような状態になった。クインシーによると、この頃彼は相当の恥ずかしがり屋で、レコーディング・スタジオでも、灯りを消してソファの向こうでしか歌おうとしなかったと語っている。そうして出来上がったアルバム『スリラー』は全米チャートで37週にわたり1位を記録。日本でもオリコン史上初の洋楽アルバムによるミリオンセラーを達成。「Billie Jean」「Beat It」「Thriller」とミュージック・ビデオの概念を変える作品を次々に発表し、『スリラー』はアルバムの売り上げの世界記録を更新した。
1983年1月発表の「Billie Jean」はマイケル作詞・作曲の曲で、曲とビデオの両面でゴシップ記事に苦しめられる自身の姿を投影したものと言われている[要出典]。2005年の無罪判決の時もジャーメインが「Larry King Live」に出演した時、司会のラリー・キングもこの曲を引き合いに出し、「マイケルは被害者か?」と質問している。ジャーメインはこれに対し、この曲に関しては人によって非常に多様な解釈が出ていることを念頭に置き「歌詞の内容が曲解され、事件が起こる」と語っている。この作品は黒人であるにも関わらず、MTVでプロモーションビデオが放映され続け、「黒人の映像は放映すべきではない」というMTVの暗黙のルールを壊した作品のひとつとして知られている(もうひとつは、プリンスの「Little Red Corvette」である)。
2月には「黒人音楽の壁を越え、ジャンルの壁を壊す」というコンセプトのもとで、ヴァン・ヘイレンのエドワード・ヴァン・ヘイレンを起用した力強いロックナンバー「Beat
It」を発売。このビデオではリードシンガーの背後で群集がダンスするという、プロモーションビデオの画期的な変革を行ったことで知られる。現在では当然のように撮影されているが、その原点と言われるのがこの作品である[要出典]。このショートフィルムでは自身の希望で「ロサンゼルスのストリートの本物のチンピラ」を起用した。
1983年5月には、モータウン25周年コンサート(Motown 25: Yesterday, Today, Forever)においてこの曲の間奏でムーンウォークを初めて披露した(ビデオ映像)。なお、この際、モータウンのコンサートに出演する代わりに「Billie
Jean」を歌うことを条件に出したとされている。この初披露のムーンウォークでは爪先立ちが上手く出来ず本人の満足のゆくものではなかったという。
そして、12月には後の多くの調査でミュージックビデオの最高傑作と目される「Thriller」がMTVで初公開された。約14分の大作であるこのビデオではマイケルが狼男に変身したり、ゾンビとダンスを踊ったりと、特殊効果を多用したその映画的な構成が話題となった。監督はジョン・ランディス。1999年のMTVによる「今まで作られたビデオの中で最も偉大なベスト100」でも1位に輝いている。また、この年の年末にはペプシと大型スポンサー契約も結んでいる。
1984年2月には本人出演のペプシのCMが、MTVによって初公開された。しかしペプシのCMでライブバージョンを撮影中、アクシデントが起こった。階段最上段からステージに降りてくる途中で散らす予定の火花が、階段最上段にいる状況のまま散った。髪に火がついた状態のまま登場したマイケルは、頭頂部に大きなやけどを負った。この時は皮膚移植手術によって完治した。ペプシ側はマイケルに対して推定3億円あまりの賠償金を支払ったが、マイケルはこの賠償金の全額を治療した病院に寄付した。また、この一件についてペプシ、製作者側を非難することはなく、両者の関係が悪化することもなかった。
『スリラー』の記録的ヒットの後、家族を巻き込んだ金銭的トラブル、音楽的方向性の分裂と妥協の繰り返しなど、ザ・ジャクソンズの活動は困難に直面。マイケルはアルバム『Victory』収録曲のうち3曲でリード・ボーカルを担当するが、結局「ヴィクトリー・ツアー」の後にグループを脱退する。ザ・ジャクソンズはその後ジャーメインがリードボーカルを務めるもののうまくいかず事実上解散状態になった。
ロナルド・レーガン大統領夫妻とともに(1984年5月14日)1985年には、エチオピア難民救済チャリティーを目的としたUSA for AFRICAに参加し、その際「We Are The World」をライオネル・リッチーと共作した。その姿勢は評価されたが、「バンド・エイド」の模倣であるとの揶揄、アメリカ中心主義ではないかとの批判もされ、賛否両論の結果となった。楽曲自体はメロディ、歌詞共に普遍的で素晴らしいものであると言われ、多くの賞を受賞した(受賞記録を参照のこと)。ロナルド・レーガン大統領から授与された際、マイケルは右手に白の手袋をしたまま握手をしたため、一部から不評を買った。この頃から彼は持病として皮膚病を患っていたため、手袋を外せなくなっていた。
同年8月、ビートルズの版権251曲を管理する音楽出版社ATVを約4,750万ドルで購入。ビートルズのメンバーではポール・マッカートニーと2曲のデュエット・シングル(「The
Girl Is Mine」、「Say Say Say」)を発表するなど親交が深かったが、マイケルの所持する大量のビートルズの版権をマッカートニーが売買してくれないかと交渉を持ちかけたところマイケルが断ったため、その後はさほど仲が良くない。なお、マイケルに音楽の版権を投資対象として買うよう勧めたのはマッカートニーであった。マッカートニー自身は不仲説を否定しており、マイケルの没後には「マイケルが版権を残さなかったことで私がショックを受けているというのはまったくの事実無根」「マイケルと私は実際、何年にも渡って疎遠になってはいたが、仲違いしていたわけではない」と声明を出している。マイケルはビートルズに対して特別な思い入れがあり、ジョン・レノンの次男ショーン・レノンと1988年の「ムーンウォーカー」で共演したり、「Come
Together」をカバーしたりしている。なお、ビートルズの版権は20年後の2005年時点でも、購入した版権の半数を所有していた。
1986年5月、ペプシとの契約を更新。ペプシはソロ・ワールドツアーの宣伝や公演も受け持つことになったため、世界ツアーに向けて大きな後押しを得ることになる。8月には、クインシーと共にウエストレイク・スタジオのスタジオD室に陣取り次のアルバムの制作に取り掛かった。
完成したアルバム『BAD』は1987年8月に発表され、「I Just Can't Stop Loving You」から「Dirty Diana」まで、史上初の同一アルバム5曲連続全米チャート1位という前人未到の偉業を成し遂げた。表題曲「BAD」のショートフィルムは、私服警官に強盗と間違えられて射殺されてしまった青年の実話が基になった。パフォーマンス部は今までの縦と横の動きに加え様々な動きを加えた複雑なダンスを披露した。振付はグレッグ・バージ。ロバータ・フラック、ウェズリー・スナイプスが出演し、マーティン・スコセッシが監督を務めた。1987年9月から世界ツアーを行い、1988年にかけてアメリカや西ドイツ、イギリスなどで公演を行った。日本に於いても「M.M.旋風」と称されるブームを巻き起こした。なお、もうひとつの「M」はマドンナである。
西ベルリンのコンサートに詰めかけた観客(1988年6月19日)1988年1月には自伝「ムーンウォーク」が出版され、4月のニューヨークタイムズ・ベストセラー・リストで初登場1位を獲得した。この頃、社会的な問題に対しても目を向けだし、1月発売のシングル「Man In The Mirror」ではポリティカルな題材を歌い、後のマイケルの作風につながる作品となった。1988年4月にはソ連のCMに西側諸国の人物であるマイケルが出演したことで話題となった。また、この頃ビートルズの版権を大量購入するなど、ロックに意欲を示していた。その彼はハードロック調の楽曲「Dirty Diana」を書き、4月にシングルとして発売された。この曲はダイアナ・ロスを連想させるタイトルであったため当時話題を呼んだ。
1989年、BREアウォーズでポップ・ロック・ソウルの三部門を制した。エリザベス・テイラーはこれを「The True King of Pop, Rock And Soul」と称した。
世界のトップスターに上り詰めたマイケルであったが、更なる極みを目指し『Dangerous』を制作。このアルバムからクインシー・ジョーンズとのタッグを解消した。1991年10月に発売されたこのアルバムからの先行シングル「Black Or White」は文化的価値観の違いを乗り越えようという歌詞が多くの人に受け入れられ、20カ国以上で1位を獲得。全米チャートでも7週連続1位を獲得した。ロッキングなポップチューンでラップをフィーチャーしたこの楽曲は、音楽的にもクインシーから完全に独り立ちしたマイケルの姿を全世界に見せ付けた。ショートフィルムでは「スリラー」を手がけたジョン・ランディスが、再び監督として参加。当時としては最新の映像技術であるモーフィングが採用され話題となった。
ところが、この曲のショートフィルムでは後半のソロ・ダンスシーンが暴力的及び性的な要素が強すぎるとして一般放映が中止されるという事態になった。後にそのバージョンのショートフィルムはその部分の映像に黒豹が登場することからパンサー・バージョン(パンサーとは豹属の動物一般のことである)と呼ばれるようになった。セクシュアルなダンスや、人種差別団体(クー・クラックス・クラン)の名前やハーケンクロイツの描かれた車や店のガラス窓を破壊するシーンが問題とされた。なお、この映像は現在ではヨーロッパでは一斉放映が許可されており、マイケルのビデオ作品では見ることが出来る。ただ、現在見られるパンサー・バージョンは、初期の映像とは若干違っており、窓に書かれた人種差別団体の名前などいくつか修正され、今ではそれらの文字は消されている。
アルバム『Dangerous』は1991年11月に発売され、ビルボードでは4週連続1位を獲得。発売後6週間で全世界での売り上げは1千万枚を突破した。このアルバムで共同プロデューサーとなったテディ・ライリーはクリフォードから、アルバム『Dangerous』は時代を先取りしていた、と後に評されている。発売日にはロサンゼルス国際空港でアルバム3万枚が銃で脅され強奪されるという事件も起こっている。
しかし、このアルバムの発売と前後してかつてマイケルを映像で世界的スターにしたMTVがグランジバンドニルヴァーナの「スメルズ・ライク・ティーン・スピリット」を大量に流す事態が発生。それで強力に煽られることとなった1991年9月発売のニルヴァーナのアルバム『ネヴァーマインド』に連続を止められ、アメリカではかつてのMTV主導型のマイケルの音楽は商業的過ぎるという批判を受け出すことになる。そのため、アメリカでは評判は前作ほど良くはなかった。しかし、全世界ではこのアルバムは前作を超える3100万枚以上を売り上げることになる。
1992年1月には「Remember The Time」を発売。翌月公開されたショートフィルムはエジプトの王国をモチーフにしたもので、エディ・マーフィー、イマン・アブドゥルマジド(デヴィッド・ボウイの妻)、マジック・ジョンソンと共演した。このショートフィルムでは、イマン・アブドゥルマジドとのキスシーンが話題となった。このショート・フィルムの監督は、ジョン・シングルトンが担当した。テディ・ライリーは2006年5月14日のインタビューでは今までに自分が手がけた曲の中では最高傑作と言っている。マイケルも同月アフリカに行ってツアーを開始したが、体調不良になり日程を短縮した。この際に訪れたコートジボワールでは「サン族の王冠」の称号を授与されている。
4月にはナオミ・キャンベルと官能的な求愛を繰り広げる「In The Closet」(監督は写真家のハーブ・リッツ)が発表される。7月にはNBAのマイケル・ジョーダンとMJ同士で共演する「JAM」が発表された。この作品ではヘヴィ・D、ノーティー・バイ・ネーチャー、クリス・クロスなども共演している。これらの作品では多くの有名人が出演しており、マイケルの交友の広さが窺える。7月には自らの詩や写真、絵などを紹介する本「ダンシング・ザ・ドリーム」を発表した。
HIStoryのプロモーションのためにヨーロッパ中に置かれた多くのマイケル・ジャクソン銅像の一つ[dangerous tour]では、日本人ユーコ・スミダ・ジャクソンが出ていた。
1992年からペプシがスポンサーになり、ワールドツアーを行い世界中でコンサートを行った。収益金は1992年にマイケルが設立したヒール・ザ・ワールド基金に寄付された。1993年1月には、クリントン大統領の「アメリカン・リユニオン:第52回大統領祝賀会」での就任コンサートで「Gone Too Soon」「Heal The World」を披露した。2月にはTVの人気トーク番組「オプラ・ウィンフリー・ショー」にネバーランドでのライブインタビューという形で出演した。そこではムーンウォークのやり方を実際にマイケルが見せてくれたり、即興で「Who is it」をアカペラで歌った(翌日からラジオで同曲のリクエストが全国的に殺到する“事件”が起きた)。彼が皮膚病の尋常性白斑に罹患していることを公表したのも、この番組の中であった。
1993年スーパーボウル第27回大会のハーフタイムショーでライブを行う。大型のビジョンの中で踊るマイケル。その後、画面から上部に飛び出しヴィジョンの上でダンス。さらに中央のステージまで瞬間移動するというもの。さらには、1分13秒間ステージ上で静止するという前代未聞のパフォーマンスを見せ、ジャクソンのハーフタイムショーはスーパーボウルの前半戦よりも高い視聴率を記録した。このジャクソンのパフォーマンスは、スーパーボウル・ハーフタイムショーの新たなスタンダードを築いたと言われている。彼はスーパーボウル・ハーフタイムショーの伝統上、ノーギャラでこのライブを行った。その結果、スーパーボウル単体としての価値が上がり、現在のような世界のトップアーティストを毎年ハーフタイムショーに招くことが定着していった。半年後の1993年8月、彼はマイケル・ジャクソンの1993年の性的虐待疑惑で訴えられ、ワールドツアーを途中で断念する。
1994年には、MJJプロダクションズを設立した。1994年5月、ドミニカ共和国でリサ・マリー・プレスリーと電撃結婚。1994年10月のベスト・アルバム発売が予定されていたが、延期され1995年6月に2枚組アルバム(ベストアルバム+オリジナルアルバム)『HIStory』を発売した。タイトルは“history”と“his story”を掛けたものである。当初は新曲は4曲で1枚のベスト・アルバムの予定であったが、延期され新曲が大幅に追加された。収録曲「D.S.」(この楽曲の名称はマイケルを訴えようとした検察官トム・スネドンを暗示したものと言われている)などマイケルにしては世間に対する主義主張の強い、イデオロギー性の強いアルバムである。
カンヌで(1997年)アルバムの発売に先駆けて5月先行シングル「Scream」が発売され、妹のジャネットとのデュエットが話題となった。二人の仲が良いことは有名で、ジャネットは自身のライブ中に裁判で戦っているマイケルに祈りを捧げたことがある。また当時の彼女の人気はマイケルに追いつくほどであった。8月「You Are Not Alone」を発売。史上初のビルボードHot100における初登場1位を獲得した。ショートフィルムでは当時の妻リサ・マリーとセミヌードで競演。12月には地球環境の破壊について切実に歌い上げた「Earth Song」をヨーロッパでカット。イギリスでは6週連続1位を獲得、イギリス国内だけでも100万枚を突破し、イギリスにおけるマイケル最大のヒット曲となった。マイケルのお気に入りの曲の一つでもある。
1996年4月には「They Don't Care About Us」をシングルカット。ところが、歌詞の一部が反ユダヤではないかとして批判を浴び、マイケルは自身が反ユダヤではないと弁明することとなった。ミュージックビデオのうちプリズンバージョンはMTV等の番組で放送が自粛され、ビルボードでは最高30位。しかし、ドイツでは首位を獲得している。7月16日にはブルネイの国王であるハサナル・ボルキアに招待され国王の誕生日とジュルドンパークオープン記念に無料コンサートを開催した(費用は国王持ちだった)。1996年9月から3度目の世界ツアーを行う。韓国では熱狂した少年がマイケルの乗るゴンドラに飛び乗るというハプニングもあった。11月14日にデビー・ロウと二度目の結婚。
1997年、突如『Blood on The Dance Floor』(新曲5曲+リミックス8曲)を発売。600万枚以上の売り上げを記録した。マイケルは表題曲をエルトン・ジョンに捧げたとされている。詳しい経緯は分かっていないが、エルトン・ジョンはエイズの少年ライアン・ホワイト(1971年-1990年)に関する話でかつて協力し合った仲である。エルトン・ジョンは後の裁判の際には最後まで沈黙を守り続けている。この直後、ソニーとの確執は表面化し、1997年10月に発売されるといわれていた『ヒストリー』からの第7弾シングル「スマイル」が販売停止となった。
1998年7月に来日し、世界空手道連盟加盟団体の士道館から名誉五段を授与される[13]。またこの際に「マイケル・ジャクソン・ジャパン」の設立を発表し、日本をはじめとして、アジアやアメリカでテーマパーク「World Of Toys」の建設や、国内外での玩具店の直営及びフランチャイズ方式での経営を行う計画を発表するが、その後計画は解消となる。
1999年6月にはマイケルと有志の友人たちがふたつのチャリティコンサートを開いた。収益金は赤十字、ユネスコ、ネルソン・マンデラ子供基金に寄付された。この頃ニューアルバムの製作に取り掛かっていたマイケルであったが、プロデューサーのウォルター・アファナシエフは「Fall Again」(後にアルティメット・コレクションにデモ音源が収録された)という曲を手がけている最中「レコード会社側が圧力をかけていてね(まだ発売されないんだ)」というコメントも残している。この当時何曲かのシングルの発売の噂は出ていたが、1つも実現しなかった。
2000年12月12日に第16回ロックの殿堂入りが決定され、2001年3月に正式にロックの殿堂入りした。なお、マイケルはジャクソン5としても1997年に殿堂入りしている。
2001年8月、『Invincible』の先行シングルとして発売された「You Rock My World」はフランスで5週連続1位を獲得。スマッシュヒットとなる。「Butterflies」は米国内でラジオ向けにシングルカットされたのみで、CDとしてのシングルカットはなかったのにもかかわらず、大きな反響を呼びエアプレイだけでビルボードで14位まで上り詰め、R&B・ヒップホップシングルチャートでは2002年年間12位を記録した。同年9月7日、10日、マイケルはニューヨークでソロ30周年を祝うコンサート「Michael Jackson: 30th Anniversary Celebration, The Solo Years」を行った。日本からは安室奈美恵が駆けつけ、オノ・ヨーコも参加した。9月7日は兄弟達と出演し、終幕はクインシー・ジョーンズの指揮で出演者全員による「We Are The World」が演奏された。9月10日には最後の「You Rock My World」でアッシャーとクリス・タッカーがパフォーマンスに参加した。コンサートはチケット総売り上げ額10,072,105ドル、観客総動員数34,884人と成功のうちに終わった。しかし、その翌朝アメリカ同時多発テロ事件が起こる。これにより密かに予定されていた「Invincible World Tour」が中止となった。
事件に衝撃を受けたマイケルは、「We Are The World」を再現したような豪華アーティストを集めたチャリティシングル「What More
Can I Give?」を企画。この曲はもともとはコソボ自治州のアルバニア系住民に捧げる予定であった曲で1999年には既に存在していた。マライア・キャリー、セリーヌ・ディオン、ジャスティン・ティンバーレイク、ビヨンセ、リッキー・マーティン、ルーサー・ヴァンドロスらスターを集めてコンサートを開催した。しかし、10月にレコーディングは終わっていたのにもかかわらずプロデューサーのスキャンダルなどの影響でCD発売は実現しなかった。ソニーの圧力があったとも言われる[誰によって?]。なお、マイケルはこの頃2期目の再選を狙っていたジョージ・W・ブッシュ大統領の政治方針に反対し、民主党を支持し資金集めに協力しようと、2002年4月にアポロ劇場で「Black
or White」「Heal The World」を披露している。
2001年10月、最新オリジナルアルバム『Invincible』を発表。タイトルは「無敵で、いつまでも成長し続けることで人々のために貢献する」という意味合いを込めたもの。当初は1999年11月9日発売の予定だったものが数回延期され、2001年10月30日(US)発売となった。このリリースの直前、レコード会社の凄まじい圧力に痺れを切らしたマイケルはトミー・モトーラにもはやこのアルバムで最後だと通知した(実際、このアルバムが生涯最後のものになった)。この後マイケル側とレコード会社側は激しいバトルを繰り広げることになる。(後述ソニーウォーズ)
ラスベガスで(2003年)2002年11月19日、宿泊していたベルリン市内のホテル4階のバルコニーにて、窓から生後数ヶ月になる自身の息子を外側のファンに見せた。マスコミが「手すりの辺りでブラブラとさせ不安定な状態で危険にさらしたのでは」と強烈に非難。これに関連しベルリン市警が子供の保護監督の怠慢だとし捜査を開始。訴追はされなかったが、世界的な非難を浴びて「弁解はしません。私は大きな過ちを犯しました。(あの時)とても興奮していました。私は自分の子供たちを故意に危険にさらすようなことは、絶対にしません」と謝罪した。マイケルの友人であるユリ・ゲラーは「マイケルには多大な精神的プレッシャーがかかっていて、また時差ぼけもあります。彼のしたことは間違っています。何も考えていなかったのでしょう。興奮しすぎていたのかもしれません。でも最高の父親です」と語っている。なお、この際子供の顔を隠していたことも一部で話題となったが、これはパパラッチから子供たちを守るために顔を隠していると言われている。
2003年6月24日、ハリウッドのコダック・シアターで行われた第3回BET(ブラック・エンターテインメント・テレビジョン)アウォードで、「ソウルの帝王」ことジェームス・ブラウンのパフォーマンスにマイケルが飛び入りで参加した。ステージ上でマイケルとジェームズが共演するのは約20年ぶりのことであった。その後マイケルは「ここにいるこの人物ほど、僕に大きな影響を与えた人はいない」とスピーチし、自らの師匠であるブラウンに生涯功労賞を手渡した。この際、会場にはマイケルと共にラトーヤも姿を見せた。この年、ノーベル平和賞に再びノミネートされる。同時多発テロ被害者の支援のために作られたにもかかわらず、長らく棚上げの状態が続いていた「ホワット・モア・キャン・アイ・ギブ」であったが、何とかして発売できないかと検討した結果、オンラインで2ドルで販売されることが決定し、2003年10月にダウンロードが始まった。これによって集まった資金は子供の組織に寄贈された。2003年11月18日にベスト盤『Number Ones』をリリース。この直後マイケルは性的虐待疑惑で逮捕され、いわゆる「マイケル・ジャクソン裁判」が始まり、世界各国のマスコミから衆目を浴びる。
2004年12月15日限定発売ボックスセット『The Ultimate Collection』を発売。アルバムの中には、イラク戦争に対する反戦歌として2004年にレコーディングされた「We've had enough」も収められている。
2005年6月13日、性的虐待疑惑のすべての件に関して無罪評決が下る。同月、裁判の療養もかねて親しい王族が多いバーレーンに移住した。2005年7月、2枚組のベスト盤『The Essential Michael Jackson』を発売。アメリカでは最高位96位と振るわなかったが、イギリスおよびアイルランドでは2位、フランス(コンピレーションアルバムチャート)やベルギーでは首位を奪う(フランスではコンピレーションアルバムチャートで6週もの間首位の座を守り続ける)。2005年のハリケーン・カトリーナの被害に際してもチャリティシングル「I Have A Dream」を企画。だが、前回同様にレコード契約を決めないまま制作した影響もあり、現在発売未定となっている。仮名は「From The Bottom Of My Heart」であり、正式名称はキャロル・ベイヤー・セイガー、デヴィッド・フォスターと共作した1999年10月発売予定だった曲の名前と同じである。
2006年には、元ジャクソン5のドラマー、ジョニー・ジャクソンが刺殺される事件が発生する。同年マイケルのシングル作品20作が片面DVD仕様のシングル(Visionary: The Video Singles)として再発売され、スペインのチャートではマイケルの曲が再発で次々と1位になり、結果的に15曲までもが1位を獲得するという快挙を成し遂げた。
2006年4月、マイケルとバーレーン王子、シェイク・アブドゥラー・ビン・ハマド・アール・ハリーファとの合弁会社、トゥー・シーズ・レコーズと契約。同年5月26日、1998年世界空手道連盟のイベントに出席して以来の来日。「日本にはいい思い出がたくさんあるのでとても楽しみ。変わらぬ愛で僕をサポートしてくれたファンのみなさんに会えることを楽しみにしている」と語る。27日、日本でMTVジャパンが主催する「MTV Video Music Awards Japan」に出席し、裁判以降初めて公の場に姿を現した。28日自身の子供達と共に児童養護施設「星美ホーム」を訪問。29日にはアジア財界のメンバーと会談した後に、YOSHIKIや叶姉妹らと対面した。また、6月5日放送のSMAP×SMAP(収録は5月31日)に飛び入りの形で出演した。マイケルがテレビのバラエティー番組に出演するのは世界で初めてのことである。関東地区の視聴率は22.0パーセント、瞬間最高視聴率は25.9パーセントを記録した。出演料は20万ドル(約2000万円)。結果的にこの出演が生前最後のテレビ番組出演になった。
パリのディズニーランドで次男プリンス・マイケル2世とともに(2006年6月18日)6月17、18日にはベルリンで、マイケルの無罪評決1周年を祝うパーティーが開催された。W杯ドイツ大会では世界発売されたFIFA公式アルバム『Voices』に参加し「アース・ソング」を収録している。
無罪評決を受けて音楽活動も本格的に再開され、2007年後半のニューアルバムの発売が4月に発表された。5月にはニューアルバムの製作にマイケルのアルバムを3作品共同プロデュースしてきたテディ・ライリーが再び参加すると伝えられた。2006年6月にはレイモン・ベインが声明を出し、レコーディングの為にバーレーンの住居は維持したままヨーロッパに移住する予定があるというマイケルの意向を伝えた。また、同月MJJプロダクションズを段階的に廃止する目的で、マイケル・ジャクソン・カンパニーを設立した。
8月25日午後2時25分頃、ネバーランドの西側で森林火災が発生したが、午後7時半頃には鎮火。9月、バーレーンのアブドゥラ王子の所有するトゥー・シーズ・レコードとの提携を解消。4月にガット・レコード会長のガイ・ホームズがトゥー・シーズの代表取締役に就任するという報道があったが、ホームズによると正式な契約は交わしていなかったのだという。そのため、6月に設立が発表されたマイケル・ジャクソン・カンパニーがレコード会社としての役割を担うこととなる。
11月14日、ギネス・ワールド・レコーズが、アルバム『スリラー』の総売上げ枚数を1億400万枚と認定したと報道される。だが、実際には6500万枚と記載されていた。同日、新たに8部門に関して世界記録認定書を授与された。11月15日のロンドンのアールズ・コート・アリーナで開催されたワールド・ミュージック・アウォード2006ではマイケルは7億5000万枚の総売り上げを誇るとされた。12月14日、日本にて同月19日に行われる予定だったMichael Jackson Premium Christmas Partyが急遽延期された。高額なチケット料金に一部見直しが図られ、また2007年3月9日,10日と二日間に渡り行われることになった。デーブ・スペクターのMC登板に、以前から彼からマイケルのゴシップ報道を聞いていたファンによる批判が相次いだ。
12月25日、ジェームズ・ブラウンが死去。ブラウンは生前自分がマイケルに対し好意を持っていたことを述べ、「アメリカへ戻って来ることについては心配するなと伝えてくれ」と語っていた。そのマイケルはクリスマスからアメリカ合衆国に帰国し、ラスベガスに滞在する。マイケルは12月27日、レイモン・ベインを通じ「ブラウン氏に対し常に抱いていた愛情と尊敬の念は、言葉では充分に語り尽くせません」というコメントを出す。12月30日にはブラウンの告別式がジョージア州オーガスタのジェームス・ブラウン・アリーナで行われ、約9千人の参列者が参列。マイケルも参列しスピーチを行う。マイケルは棺に口付け別れを惜しんだ。
2007年3月4日にファン感謝イベントに参加するために成田空港より約1年ぶりの来日。3月5日、子供たちのためにビックカメラ有楽町本店を借り切っておもちゃなどを購入。3月7日、東京ディズニーシーを初訪問。3月8日と9日に「ファン感謝デー」が開催。3月10日14時過ぎ、神奈川県の在日アメリカ軍基地の「キャンプ座間」の「ヤノ・フィットネス・センター」でおよそ3000人の兵士やその家族から歓迎を受ける。3月14日に離日。
2008年2月、スリラー25周年記念エディションをリリース。エイコン、ウィル・アイ・アム、カニエ・ウェストらによる同アルバム収録曲のリミックスが収録されている。2008年9月、「Michael Jackson King of Pop」をマイケル生誕50周年を記念してリリース。世界20ヶ国以上でそれぞれの国でファン投票を行い、日本盤ではその中の15曲が収録された。
2009年3月5日、「7月にロンドンのO2アリーナで10公演を行う。これは“生涯最後の公演”(ファイナル・カーテン・コール)になる」と発表。その後「THIS
IS IT」(This is it.)のタイトルで50回に渡る公演が行われることが発表された。チケットは全公演分が即日完売した。なお、当初は7月8日からスタートする予定であったが、7月13日からのスタートに延期された。また、この頃より「THIS
IS IT」の準備及びリハーサルに入った。
2009年6月25日(カリフォルニア時間)14時26分に死亡が確認される。50歳だった。彼の死は全世界のレコードチャートに影響を与えた。全英では直後に『Number Ones』が1位を獲得。その後『The Essential Michael Jackson』が7週連続で1位を獲得。本国アメリカのビルボードチャートでは当時は新譜のみ扱うというルールがあり、マイケルの作品は旧譜のカタログ扱いでランクインされなかったが、サウンドスキャンからの総合セールスでは『Number Ones』『The Essential Michael Jackson』『Thriller』の3作がこの週首位のブラック・アイド・ピーズの「The E.N.D.」を上回る売り上げを記録。カタログチャートの作品がビルボードの本チャートで首位の作品をセールスで上回る現象はビルボード史上初のことであった。なお、この年の12月5日付けのチャートからこのルールは変更され、旧譜もランクインできるようになった。
追悼式が行なわれたステイプルズセンター。THIS IS ITのリハーサルもこことザ・フォーラムで行なわれた。2009年6月29日ジャクソンのスタジオ・アルバム5作品を紙ジャケット仕様にしたボックス・セット『The Collection』がヨーロッパでリリース。2009年7月7日「THIS IS IT」のリハーサルを行なっていたロサンゼルスのステイプルズ・センターで追悼式が開かれる。遺族や親交のあったミュージシャン、抽選で選ばれたファン等2万人が参列。当時11歳の娘、パリスは「生まれた時からずっと、ダディはこれ以上ないくらい最高な父親でした。すごく愛してるわ。」とスピーチし、泣き崩れた。
2009年9月17日に裁判所から5億ドルとも言われるマイケルの遺産の行方に関する法廷文書が公開された。その文書によるとマイケルの母であるキャサリン・ジャクソンに孫であるマイケルの3人の子供達の養育権を与え、キャサリンが現在、暮らしているマイケルの邸宅の維持費の他に介助費、洋服代、使用人への賃金、娯楽費など合計で2万6000ドル(日本円で約240万円)、子供達には世話係への報酬、娯楽費など3人で6万ドル(日本円で約550万円)の合計8万6000ドルが月ごとに支払われることが明らかになった。マイケルは生前からキャサリンを経済的に支えていたため、子供達の永久後見人に指名された彼女を今後も遺産でサポートするように遺産管理人は裁判所に求めていた。
2009年10月12日インターネット上で未発表曲「THIS IS IT」が解禁となる。2009年10月28日「THIS IS IT」のリハーサル映像を収めたドキュメンタリー映画「Michael Jackson's This Is It」が全世界で同時公開される。監督はケニー・オルテガ。当初は2週間限定上映であったが、人気により2週間上映が延長された。日本では週末興行収入3週連続1位を獲得した。 また映画のサウンドトラックである『Michael Jackson's This Is It』も同時に発売された。このアルバムはオリコンチャート初登場1位を獲得。これは『BAD』以来23年ぶり3作目の記録であった。
2009年11月、マイケルの父親であるジョー・ジャクソンがマイケルの遺産から毎月1万5000ドル(日本円で約130万円)以上を支給してもらえるように裁判所に申請書を提出していることがわかった。ジョーは2002年にマイケルが書いた遺書に記述がなかったために遺産は一銭も相続されないことになっている。ジョーは毎月1700ドル(日本円で約15万円)の社会保障費が支払われているが、足りない分はマイケルからの援助で生活していた。裁判所に申請されたものでわかっている内容は家賃1200ドル、外食費2500ドル、交際費1000ドル、旅費2000ドル、宿泊費3000ドルなどとなっている。2009年11月5日、マイケル・ジャクソンの1993年の性的虐待疑惑の中心人物だった男性、エヴァン・チャンドラー(訴えを起こした少年の父)が遺体で発見された。拳銃自殺とみられている。
2009年12月7日付けオリコン音楽DVDチャートで「Live In Bucharest: The Dangerous Tour」が5位を獲得。その後、歴代洋楽DVD売り上げランキングにおいて第1位になった。2009年12月30日ジョン・ランディスが監督した「Thriller」のミュージック・ビデオがアメリカの国立議会図書館に永久保存される。ミュージック・ビデオが保存されるのは今回が初めてである。
2010年1月1日「The Collection」が日本でリリースされる。しかし、通信販売限定商品としてだった。アメリカでは発売されていない。2010年1月27日映画「Michael Jackson's This Is It」のDVDとBlu-rayがリリースされ、オリコン週間DVD総合チャートとオリコン週間Blu-ray総合チャートで、2月8日から3週間連続第1位を獲得した。
2010年6月、マイケルが2002年に書いた遺書から財産の分与の相続手続きの内容に関して、米Aceshowbizによれば、95年にマイケルが財産管理のために設立した財団『マイケル・ジャクソン・ファミリー・トラスト』を通じて、遺産の40%はマイケルの母であるキャサリン・ジャクソンに、残りの40%はマイケルの3人の子供達に、20%はチャリティ分与されることがわかった。また、キャサリンが亡くなった場合、彼女が相続した9900万ドルの残高は子供達のものとなり、子供達が30歳になった時に相続する遺産の1/3である3300万ドル(日本円で約30億円)を、35歳で1/2を、40歳までに残りの全額を自由に使える権利を得ることになる。マイケルの親族は「マイケルにとって母親と子供達は最も大切な存在だった。だからこそ、彼は自分が死んだ時に彼らが恩恵を受けられるように注意を払っていたんだ」と語り、「マイケルが望むとおり、子供達は十分な生活が保証されている。彼らが遺産を得る時には成熟した分別のつく年頃になっているだろう」とコメントしている。なお、マイケルは元妻デビー・ロウとリサ・マリー・プレスリー、兄弟のジャーメイン、ジャッキー、ティト、マーロン、ランディ、ラトーヤ、レビー、ジャネットそして父親のジョーには一銭も遺していない。
2010年6月2日、マイケルの故郷であるインディアナ州ゲーリーに3億ドル(日本円で約227億円)の予算をかけてマイケルに捧げる博物館を建設する計画が動き出したことがわかった。マイケルの父であるジョー・ジャクソンとゲーリー市当局はジャクソン・ファミリー博物館、マイケル・ジャクソン舞台芸術&文化センター、ホテル、劇場の建設が来年にもスタートすることを発表した。マイケルは生前、2003年にゲーリーを最後に訪れ、このプロジェクトについての交渉を行っていたが、その後の進展はなかった。父親のジョーは「マイケルと私たち家族が待ち望んでいた計画だ」と語っており、ルディ・グレイ市長も「このプロジェクトが何千という雇用を生み出すばかりでなく、完成すれば世界中から年間少なくとも75万人の観光客がゲーリー市を訪れ、毎年1億ドル(日本円で約92億円)から1億5000万ドル(日本円で約138億円)の経済効果が得られると見積もっている。寄付と投資によって建設費はまかない、ゲーリー市が300エーカー(1.2平方キロメートル)の建設地を提供する。不況にあえぐゲーリー市住民も博物館の建設に前向きだ」と語っている。
2010年6月25日日本でドキュメンタリー映画「Michael Jackson Commemorated」が公開となる。この映画は、ジャクソンのマネージャーであったマーク・シャフェルが監督したもので、シャフェルが10年間ジャクソンを撮影したプライベート・フィルムが元になっている。
2010年8月、BANG Media Internationalによると、マイケルが息を引き取ったロサンゼルスのボーンビー・ヒルズにある敷地面積1.26エーカー(約5100平方メートル/1545坪)の豪邸が2900万ドル(日本円で約26億1000万円)で売りに出されたという。マイケルは生前にこの豪邸を月額10万ドル(日本円で約900万円)で借り、子供達と一緒に住んでいた。この豪邸は2008年に3800万ドル(日本円で約34億2000万円)で一度売りに出されていたが、買い手がつかずに値引きで新たに売りに出したという。フランスのシャトー風の造りになっている豪邸には7つの寝室とトイレが13室、ジム、試写室、スパ設備、試飲部屋つきのワインセラーを備えているほか、ガレージには7台の車を収容することができるという。
2010年10月25日、米経済誌フォーブスがすでに死去した著名人が2009年10月1日から2010年10月1日までの1年間に稼いだ金額に基づき『死後、稼いだ著名人ランキング』を発表し、マイケルは1年間で推定2億7500万ドル(日本円で約222億円)の収入を上げてランキング1位になることがわかった。マイケルが1位を獲得した要因として、公開された『THIS IS IT』の大ヒットに加え、楽曲の売り上げも好調だったためという。同誌は著名人の遺産管理業務に携わる弁護士の話として「いずれは下降線をたどるものの、少なくともさらに数年は多額の収入をもたらすことは確実」と指摘した。このランキングは13人の死去した著名人からなるランキングだが、1位のマイケルの収入は2位以下12人の合計収入より多かった。
2010年12月、生前の未発表曲を集めたアルバム『MICHAEL』がリリースされる。
2010年12月、TMZ.comによると、マイケルの元邸宅で現在は不動産会社コロニー・キャピタルが所有するネバーランドをマンハッタンにあるジュリアード学院の音楽院のような作曲や演奏など音楽に関するあらゆることをカバーするティーンエイジャーのための音楽学校にするビジネスプランを練っていることがわかった。しかし、この計画には2つの問題があり、1つは「ネバーランドのあるサンタバーバラ郡から音楽学校の設立の許可を得られるか」、もう1つは「学校にマイケル・ジャクソンの名前を使用できるかどうか」ということだという。この計画に対し、マイケルの遺族は「非常に面白いアイデアで可能性を感じる」とコメントを発表している。
2009年6月25日 自宅にて心肺停止状態に陥り、マイケルのスタッフが救急隊に通報。12時26分に救急隊が到着。13時14分にカリフォルニア大学ロサンゼルス校(UCLA)付属病院へ救急搬送されるが、約42分間に及ぶ蘇生活動を行うも、14時26分に死亡が確認された(死亡日時はカリフォルニア時間)。50歳没。
マイケルの死は各国のメディアでトップニュースとして報道され、全世界に衝撃を与えた。CNNやBBCなどが報道特別番組を組み、病院前から24時間体制で生放送を続けた。ネットサイトでも大きな話題を呼んだ。まず最初に報道したのはアメリカのセレブリティ専門サイトのTMZで、死後18分後という異例の速さだった。その後、ロサンゼルス・タイムズがその7分後に続いた。2つのサイトはアクセス数の急増によってダウンし、Googleでは検索数が一時猛烈に跳ね上がり、「Michael Jackson」の検索がスパムとみなされ検索不可能となるという事態が起こった。
日本において最も早かったのは東京のFM局J-WAVEである。2009年6月25日に放送されていた「JK RADIO TOKYO UNITED」(ナビゲーター:John
Kabira)の中、午前6時(米西部時間14時)の番組冒頭でマイケル死去の一報が報じられた。各テレビ局の多くが病院に搬送された時点では、「マイケルジャクソンが死亡したと思われる」と報道し、実際に「マイケルジャクソンが死去」と断定して報道したのは、それから数日たってからであった。また、午前6時50分過ぎにはアメリカサイトに引用による通信社の電文を放送した。その後はマイケルの関する話題に触れながらヒット曲を放送する体制となった。
ハリウッド・ウォーク・オブ・フェーム(2009年7月19日)2009年7月1日 マイケルに雇われていた看護師のシェリリン・リーは、ABCニュースのインタビューにおいて、2009年4月頃に深刻な不眠に悩むマイケルから睡眠導入のために麻酔薬プロポフォールの処方を依頼されたが断ったと話した。(プロポフォールは、外科手術において全身麻酔の導入・維持に用いられる麻酔薬である。)心臓マッサージを床で行わなかった件も一説ではある。
2009年7月13日 マイケルの姉ラトーヤはイギリスでの取材において「(麻酔を処方した)医者がマイケルを殺したと認識している」と発言した。
2009年7月22日 ロサンゼルス市警察は、ロンドン公演「This is it」におけるツアー専属医として2009年5月から雇用されており、マイケル死亡時に心肺蘇生を行ったとされる心臓内科医コンラッド・マーレーのオフィスを家宅捜索した。
2009年8月24日 警察の事情聴取に対するマーレーの宣誓供述書とされるものが報道された。「不眠治療のためにマイケルに、5月中旬から6月22日までの6週間、連日プロポフォールを投与した。依存症になることを懸念し6月23日にはプロポフォールの使用を中止し他の薬に切り替えたが、死亡日である6月25日には催眠鎮静剤であるロラゼパム、ミダゾラムを断続的に投与するも眠りにつかせることができず、マイケルの要求によりプロポフォールを25mg点滴投与した。それによりマイケルが眠りについた後、トイレのため2分程離れ、戻ると呼吸をしていなかった」という内容だった(呼吸抑制作用のある麻酔薬プロポフォールの投与中は、患者の呼吸状態等を常に監視し続けることが義務づけられている)。
2009年8月28日 ロサンゼルス検視当局が死因を公式発表。急性プロポフォール中毒とした上で、第一の死因はプロポフォールとロラゼパムの複合使用と指摘した。殺意の有無に関わらず、他者による外的要因により死亡したとする故殺であることも断定した。
2009年10月1日 AP通信が検死報告書のコピーを入手したと報道。内容は「検視当局による解剖の結果、肺に炎症は見られるものの息切れがあった可能性がある程度で、他の心臓や腎臓などの臓器は健康であり、マイケルの健康状態は50歳の男性として総合的に見て十分良好であった。また、AP通信が麻酔の権威である医師に報告書への見解を求めたところ、『マーレーが投与した呼吸抑制作用を持つ鎮静剤と麻酔薬プロポフォールの組み合わせが非常に危険であり、その複合作用により呼吸停止が起こった可能性が高い』と指摘した」というものだった。なお、ロサンゼルス検視当局はこの報道について「検視当局内部から漏らしていない」とコメントしたが、検死結果の内容については否定しなかった(過去にタブロイド誌が報道した他の検死結果については間違いであると正式に否定している)。
[引用元: Wikipedia ウィキペディア] |